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シルキーTimeは、丹後ちりめんの着物や小物を製造・販売するシルク専門のショップです。

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〒629-2503 京都府京丹後市大宮町周枳2164-2

商品紹介新撰組羽織

新撰組を敬愛する人々のため、史料に出来るだけ忠実に羽織を再現します。これは、お土産品として売られているものとは根本的に異なり、材質、染、その他できるだけ本物に近づけるよう工夫し制作します。

新撰組羽織・オーダーメイド

あなたのほしい新撰組羽織を創ることができます。色や、サイズ、紋など、あなたのお創りになりたい羽織についてお聞かせ下さい。

新撰組羽織
新撰組羽織後ろ身 七五三・男児用新撰組羽織
新撰組羽織・後ろ側
近江麻100% 手染 手縫
子供用新選組羽織
近江麻100% 手染 手縫

加工代について
画像通りお誂え
大人用:130,000(消費税別) 子供用:120,000円(消費税別)
オーダーメイド
色、柄、デザインなどをお聞きしお見積りさせていただきます。
ご注文にあたって
寸法について
あなたの着物の寸法をお教えください。”cm”、”尺”、どちらでも構いません。自分の寸法がお分かりでない方は、身長と体重をお知らせください。あなたの寸法を、身長と体重から割り出すことができます。
色について
出来るだけご指定の色に近づけるよう努力いたしますが、麻生地は正絹の生地などとは違い、染料に染まりにくい性質がある上、その日の天候や気温などによっても色の出方が左右されます。なお、ご注文の商品は単品ですので、大量生産のように何枚も染めていくうちに色の調節をしていくことができません。そのため、染色については、指定色とある程度の誤差が生じても許容していただけますことをご了解の上、ご注文ください。
紋入れについて
”誠”の文字以外の紋入れをご希望の場合、別途おお見積りをさせていただきます。

オーダーメイド・羽織紐

羽織紐の太さ、長さ、色、房の大きさなどをご指定ください。それによって、お見積りをご連絡いたします。

素材:絹100%


新撰組羽織制作に至るまで

羽織制作あたっては、実物が現存しなので、以下を参考にしました。

色について

[大坂の鴻池から金子二百両を借いれて服装をかえた新撰組の浪士、中にも羽織だけは公向に着用す
るというので、浅葱色の袖へ忠臣蔵の義士が討ち入りに着用した装束みたようにだんだらを染めぬいた。」

『新撰組顛末記』  永倉新八著

生地について

「壬生浪人と号し候者共五十二人一様に仕度致し、浅黄麻へ袖口の所計白く山形を抜き候羽織を着し....

『騒擾日記』  鈴木丹下著

形、柄について

浅黄の薄い色のぶっさき羽織で、裾のところと、袖のところへ白い山形を赤穂義士の装束のように染め抜
いてあるのですが、大きな山で袖のところは三つ位、裾が四つか五つ位でした。.....

『新撰組遺聞』  子母澤寛著



羽織の、「色」「生地」「形や柄」は、上記を根拠にして、羽織制作に取り掛かりましたが、次々と疑問にぶつかりました。


Q.1浅葱色(あさぎいろ)
新撰組の羽織の色に関する記述の中には、「浅黄」と「浅葱」の両方が見られるが、「あさぎ」とは一体どんな色をいうのだろうか?

「古き物浅黄とあるは、黄色の浅きをいえる也。然るを後に、浅黄色とまがいて、浅葱色のことをも、浅黄と書くから、古き物に浅黄とあるをも、誤りて浅葱色と心得たる也。」

随筆・玉勝間-10


このように古くは、「浅黄」は薄い黄色を言い、「浅葱」は薄いねぎの葉の意であり、両方それぞれ別の色だったようである。しかし、時代の経過と共に、人々の「浅黄」色に関する認識は変化し、近世以降は[浅黄」も「浅葱」色をさすようになったと考えられる。したがって、新選組の羽織の記述に、「浅黄」と「浅葱」の両者があっても、いずれも緑がかった青で、同じ色を意味しているのは間違いないだろう。また、新選組の羽織に関しては、「濃い浅葱」、「薄い浅葱」、「浅葱」など諸説があるが、一体どれが正しいのだろうか?

新選組の羽織は夏向きの単衣だった。車の無い時代、彼らは壬生から京都の町中までへと、かなりの距離を歩き回っていただろう。さらに、暑い夏の日の土煙の上がる道のりを毎日歩いていたとすると、汗もかいただろうし、羽織も汚れただろう。恐らく一夏の内には、何度か洗濯もしただろう。

もともと麻という生地は、なかなか染料に染まりにくい性質がある上に、当時の染料は天然染料だったろうことを考えると、例えば、藍染めの品物が洗うと色落ちするように、恐らく新選組の羽織も、洗うほどに色落ちした事は十分考えられる。とすると、羽織が新調され間もない時期に見た人にとっては、隊士の着る羽織は確かに濃い浅葱だったろうし、何度か洗濯された後の羽織を見た人にとっては、色落ちして薄い浅葱色のしわだらけの羽織だったのだろう。そのせいか、後に八木為三郎老人が、あまり良いものではなかったと証言しているのもうなずける。したがって、羽織の浅葱色に諸説があっても、見た人の時期がそれぞれ違ったと理解すれば、説明がつく。

以上の理由で、今回製作の羽織の色は濃い浅葱色に染色した。 しかしながら、調べていくうちに、浅葱色に対する人々の認識は、厳密に言うと、時代とか個人により様々で、非常に感覚的なものであることも忘れてはならない。ところで、なぜ彼らは、浅葱色を隊服の色に選んだのだろうか。

これに関しては、当時きものの裏地に使用した浅葱木綿が、野暮で無骨な田舎侍を意味する一方、田舎侍がほとんどの新選組と浅葱色に対する親近性を言う人があるが、あまり意味がないように思える。我々呉服屋からすると、単衣の羽織をお客様に薦める場合、涼感があり、かつ、だんだら模様がはっきりする色といえば、このような色に落ち付くことは必至であり、むしろあまり羽織の浅葱色に意味など無かったと考える方が自然ではなかろうか。このように考えていたが、ある方から、浅葱色についてこのように教えていただいた。

「浅葱色については当時は白色の絹が高価だったことともう一説に武士の切腹時は浅葱色の裃を着用したのでいつでも死に向かう覚悟で戦いに臨むという気概をみせる為に浅葱色であったと伝えられているそうです。ちなみに忠臣蔵の四十七士も切腹時は浅葱色の裃をお召しになっていたとか。時代劇でよく真っ白な裃姿で大石内蔵助に呼び出しがかかりますがあれは本当ではないのですね。浅葱裏は田舎侍の代名詞ですが、紋付きの裏側に浅葱色の裏地を貼っていざというとき切腹時に裏返して着るというのは貧乏侍の知恵というか着回しだったのでしょう。」

初め、新選組の羽織が”公向”にも使用する目的で作られたということなら、このだんだら模様の羽織は、あまりにも不適切だと思ったのだが、新選組の公向の意味するものを考えると、この羽織は今でいうユニフォームであり、ならば、模様も色も作るときに確かな意図をもって作られたと考えるのが、より自然のように思えてきた。

Q.2 麻生地
なぜ、羽織の生地が麻なのだろうか?

江戸時代に木綿が一般化するまでは、日本人の衣服の素材は、絹と麻だった。当時、日本の麻織物の産地は、加賀の石動、越中の高岡、越前の府中、近江の高宮他たくさんの産地があるが、この度製作の羽織は、京都に近いことを考慮し近江の麻を使用した。 また、なぜ彼らが羽織に麻生地を選んだかというと、恐らく彼らの着る紋付きの着物は木綿だったろうから、羽織だけを贅沢な正絹の紗や絽を着ることは、初めから選択肢になかったのではなかろうか。しかし、芹沢の兄などは、羽二重の紋付の着物を着ていたそうだから、そこから推測すると、新選組の幹部あたりは、正絹の着物を着ていたのかも知れない。

それにしても、彼らは、時期的に何時頃から何時頃までこの羽織を着ていたのだろうか?池田屋事変以後、この羽織を着ている姿を見かけなくなったと言われるが、本当はどうなのだろう。木綿の着物がまだ一般的でなかった江戸時代以前ならともかく、幕末と言えば、木綿は既に庶民一般の衣服の素材だったはずで、冬場に人々が羽織を着るとするなら、暖かい袷の木綿羽織にするだろう。したがって、一部、神社の神官などを除けば、特別の理由のない限り、寒い冬に麻を着ることはまず考えられない。だから、この新撰組の羽織は、初めから夏場に着用する目的で誂えられたと考えるのが適当だろう。

現在の呉服の着用常識からすると、麻の着物や羽織の着られる時期は、盛夏をはさみ6月から9月までの、単衣の時期である。しかし、江戸時代の、既に定着していた衣替えの服制に従うと、新撰組の羽織が着られた時期は、旧暦の夏である4月から6月ということになる。これは現在の新暦5月から7月にあたるが、実際には8月9月になってもまだまだ暑いので、旧暦で8月といえばは既に秋とは言え、現在の9月頃までは、新撰組の羽織は着用されていたと考えた方が良いだろう

だから、新選組の隊士ががこの羽織を着た時期は、通年ではなく、その年の夏の間、すなわち、平野屋から借りた金で「大丸呉服屋」か「菱屋」で羽織を作ったとされる文久3年から、見かけた最後の記録のある元治元年にかけての2年間に渡り、夏の季節だけ着られたのではないかと推測する。

Q.3 柄
山形の数はいくつだったのだろうか?

上記の「柄について」であるように、白い山形は、袖の所に大きな山形が三つ、裾が四つか五つというと、これは、羽織の前身と後身とを合わせての数だろうか?
もしもそうだとすると、一般に見られた羽織の山形よりも見た目にも山形の数が少なく、一つ一つの山形の角度が広くなり、山形もかなり大きなものになる。しかし、羽織が「仮名手本忠臣蔵」の義士を手本としていることや隊旗の山形の角度から推測すると、「新撰組遺聞」の記述は恐らく、前身か後身のいずれかを見てのことではないだろうか。
したがって、山形の数は、後身頃の山形の数として、羽織を作製する。

Q.4 「誠」の文字
実際の羽織に「誠」の文字の染め抜きはあったのだろうか?

一般には、背に「誠]の文字が入っているものをよく見かけるが、実際に背に『誠』の文字が染め抜いてあったかどうかについては今のところ確認できていないので、とりあえず「誠」の文字の無いものにした。

2000年9月より、下記の「八条隆祐卿手録」を根拠に、実際の羽織は背に「誠」の文字が入っていたものと考え、この羽織には「誠」のあるものを標準とします。

「(大和屋焼討時)浪人ども、その夜、抜き身にて警固、羽織は浅黄にて、誠と云う字を染め込みありし由。」

八条隆祐卿手録

Q.5 羽織丈
羽織丈は一体どのくらいの長さにすればよいのだろうか?
武家姿 異風変態二十種の図より 町人長羽織姿
武家の羽織袴
異風変態二十種の図より
町人の長羽織姿

江戸時代、羽織の丈は現代の女性のスカートのように、その時期時期によって長くなったり短くなったりの流行があったようである。また、町人は概して長羽織を好んだようだが、武士の場合、「紋付・羽織・袴」は言わば武士の旅姿だから、動き易さから考えて、町人の着る羽織ほど長くなかったと想像できる。
さらに、近藤勇の人物画や隊士の現存する写真の羽織姿に加え、幕末当時の世間一般の人々の羽織丈を参考に、この新撰組の羽織丈を決めることにする。


『騒擾日記』  鈴木丹下著 について

先日弊社の新選組ホームページを見て、「トリビアの泉」というフジテレビの番組から問い合わせがあった。
弊社の新選組羽織作製の拠り所の一つとしている会津藩士鈴木丹下による「騒擾日記」とはどこにあるかという問い合わせであった。
詳しいことは分からないので、新選組に詳しい方に原本の所在をお尋ねしている。

現在分かっていることは、ある方から教えていただいた下記の内容。

▲元会津藩家老神保内蔵家助の次男 北原雅長著(明治37年4月刊)の『七年史』という本に掲載されているそうです。この本は色々な資料の抜粋本のような本で現在もちろん絶版で古い本は10万円くらいするみたいです。(でも東京・神田の古本屋さんにはありました。)一番最近東京大学出版が全4巻で出したものがあるらしいです。



以上、できるだけ史料に忠実に、新選組羽織を再現することにつとめたつもりですが、まだ分からないことが多く、さらに識者のご教唆を願いたいものです。


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